業務と無関係に、温泉はじめ旅の記録も記事にしていますが、旅に関する私見を一つお話したいと思います。
私が初めて旅に出たのは、大学に入ってすぐでした。ネットのない時代でしたので、入学後から情報は書籍から集めました。計画をはじめて3カ月、夏休みに入ってすぐに香港へ飛びました。そのせいで剣道部の入部は秋からになりましたが。当時の香港は中国へ返還前で、香港に滞在中に中国のビザを取得して陸路、深圳に入りました。現在は近代的な鉄道が敷かれ、なんら不自由のない移動ですが、その時は国境だったのです。自動小銃を持った兵士が並ぶ、国境をてくてく徒歩で移動して2か所のイミグレーションをくぐりました。そこから中国をおよそ2ヶ月で回ったのですが、同じバックパッカー達の中で19歳の私はどこへ行っても最年少でした。
(↑ このトルコから長らく外国行は中断しています)
大学の仲間からは、一人旅では寂しくないか? 言葉は? なにゆえ中国へ? などと奇異の目で見られたものです。さて、タイトルの本題ですが、旅行には様々な形があると思います。私見ですが、基礎となるのは、やはり一人旅です。一人は自由です。行動を相談すべき相手もいなく、誰かに気を遣うこともなく、実に気ままに行動ができます。普段、生きていくうえでは、仕事や学業、友人・家族・親類や近所付き合いも、常に周囲との協調が強いられています。せめて、旅の時間は自由気ままで通したい、”自由こそ旅”とすら思うのです。
もちろん、仲間や家族と一緒の旅行も、様々な体験を共感できることで、楽しく価値のあるものです。ただし、行動には常に団体行動、つまり、人に合わせる協調性が原則となります。お互い自分の好みで身勝手に行動はできません。よく、仲の良い友達同士で旅行へ行ったが、意見が分かれてギクシャクした、帰ってきてからなんかモヤモヤが残った、その最たるものが成田離婚ではないでしょうか。つまり、これは一人旅と団体旅行を混同した結果なのです。
両者は同じ旅でありながら、性質が違うのです。自分の時間を自由に過ごす、言わば、自由人と化すのが一人旅です。対して、誰かと一緒の旅行は、お互いの関係性を主題に、共感や絆を重視するものです。だからこそ、どちら派かと志向を分けるものではなく、それぞれ別物と捉えるべきと思います。
私も一人旅に固執しているわけではありません。誰かと一緒になる場合、わりとホストに徹して、相手を優先しています。相手の喜ぶ姿など、それはそれで楽しいものです。一方、自由人になりたい時は、一人で出かけるのです。また、一人旅は決して孤独ではありません。旅先での偶然の出会い、宿でもバックパッカー仲間とつるんで、ご飯に行ったり、目的地が一緒の場合、プチ同舟したりと、却って一人になりたい時すらあります。自由人は、単独行動も団体行動も、選択が自由ですから。