私は特定の宗教を信心しているわけではありませんが、お坊さんの説法は好きです。宿坊に泊まりますと朝の勤行や供養がありますが、その時にご住職の説法があります。皆さんも修学旅行で京都のお寺を訪問した際に覚えがあると思います。どれも考えさせられ、心に残るお話が多いのですが、最近の一つを紹介します。    ご住職によると、ある高校生が「新聞部」なるクラブ活動で、各新聞を研究、あるいは自主発行しているそうです。今時、新聞?と思います。朝の電車でも10人中9人はスマホを眺めています。それまでは、新聞を16分の1の極小に折り畳み、器用に読んでいたサラリーマンの姿が一般的でした。コンビニにも壁一面に雑誌コーナーが展開していましたが、どんどん縮小されているように思います。事実、新聞・雑誌の発行数はダダ下がりの一途なのです。

 それでも、新聞に拘る高校生に対し、住職は興味深く動機を尋ねたそうです。高校生曰く、「スマホはその人の興味のあることだけを検索・表示しますが、新聞は読み手に興味のないことも含め、要らない情報まで幅広く目に入ってくので、その点がスマホに勝る」そうです。なるほど、スマホは、効率重視というかステマのおかげで、情報がかなり狭められているのです。情報とは、その人の欲することばかり集めるだけでは、どうしても偏りが生じます。情報社会では、幅広い情報、無関係な事象、多様な考えを知る必要があります。新聞はそれを叶える効果があったのです。

 ご住職は、「最近の高校生、すげぇ」と感嘆したそうです。そして、自分にとって必要・有益であること、自分に関わることだけではなく、広く他者に関心を示す事ことこそ、御仏の説く利他の精神、慈愛に繋がると結びました。    情報収集ツールとしてスマホ、その合理性は疑う余地はありません。しかし、いつの間にか情報が偏狭するリスクもあったのだと気づきました。しかし、今更、新聞には戻れないものです。せめて情報収集をスマホ一択とせず、人や文物、無関心の事に対しても幅広く目をやるよう気をつけていきたいと思います。    

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