50代の皆さん限定の話ではありますが、小中学生の金曜日20:00、皆様は何を観てましたか? 感触としては、クラス40人中の9割は「3年B組 金八先生」だった印象です。㈮の8時に放送だから金八先生なのですね。毎週の学級会にて、先週放送の金八先生の話題が取り上げられるものですから、観てない生徒は蚊帳の外でした。現在のように録画できるわけでもなく、「もう一度観たい方、続きはティーヴァーで」な世の中ではなかったのです。
では、金八先生を観てないクラスのおよそ3名は何を観ていたか? そうです、裏番組の「ワールドプレスロング」です。アントニオ猪木、藤波 辰爾、タイガーマスク、スタン・ハンセン、ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントの戦いに手に汗を握っていたのです。プロレス組だけ、何かとクラスから孤立の立場、むしろ嘲笑の対象になったものです。
調べますと、金八先生の第1期、その放送期間は1979年10月26日~1980年3月28日です。第1期の生徒は、たのきんトリオ、鶴見 辰吾、杉田かおる、小林 聰美(敬称略)、そして現国会議員の三原 順子先生と錚々たるメンバーです。このシリーズは総じて若手の登竜門のようです。ただし、再放送も含めて私は1回も観たことがありません。今後も観ることはないと思います。それでも、モノマネやパロディで金八先生は知っていますし、挙げた生徒さん達はずっとテレビで御馴染みです。これはこれで、すごい事に思えます。逆に、プロレスに興味ない、嫌いと言う方々も猪木は知っています。武田 鉄矢と猪木、まさに昭和の2大アイコンですね。
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ところが夜に急に冷え込み、翌朝、窓の障子を開けると・・

(1)退職代行業って流行っていたんだ・・
退職を誰かに任せたい、そんなニーズがあるのですねぇと思っていました。ところが、ニーズはわずかではなかったのです。また、「会社辞めます」と電話や手紙を出すだけの仕事です。こう言っては失礼ですが、ノウハウなどいらないような非常に簡単な仕事です。最初、このようなユニークな(?)仕事で、経営が成り立つのかな?と疑問視したものです。ところが、近年の隆盛を見ての通り、全国規模の法人がいくも立ち上がりました。これは(商売っ気の弱い)私の想像を超えたものでした。
(2)退職代行業は非弁護士行為(弁護士法72条)か?
ある代行業社の公式サイト、そのQ&A「退職代行って違法なの?」との問いに対して、「弁護士以外が交渉を行えば違法になります。当社は「通知」に徹しているため、違法性は一切ございません」との回答が掲載されています。「交渉」とはすなわち法律業務を意味しますが、「会社を辞めます」という意思表示をだけなら、片面的な行為(一方からの通知だけ)なので、弁護士法で禁じられている「代理行為」には及ばないことになります。したがって、合法となります。
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(このジャケットで初めて顔を見ました)
(選手名は敬称略)奥 大介は1976年2月7日生、兵庫県尼崎市出身のJリーガー、現役時代のポジションはミッドフィールダー。日本代表にも選出されています。
今では信じられないことですが、1950年代までのハリウッドでは、20代前半の若手スターなど、ほとんどいなかったのです。若者が主人公となる映画は無きに等しかったと思います。名だたる二枚目俳優は若くて30代後半、ほとんど中高年でした。ロック・ハドソン、クラーク・ゲーブル、ケイリー・グラント、ジェームス・スチュワート・・もう、おっさんばっかりです。そのおっさん達が、親子ほど年の離れた若手女優とくっつく話ばかり。1953年公開、「ローマの休日」のグレゴリー・ペックは当時37歳、オードリー・ヘップバーン24歳と一回りの年齢差ですが、これでも年齢が近い方です。そう、映画は大人のもの、だったのです。
そのような中に、粗削りで未完成だが憂いのある若手スター、ジミーが誕生したのです。50年代のアメリカにおける尾崎 豊とでも例えましょうか・・それは、衝撃的なデビューだったようです。「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」有名な3部作を残しました。
「ジャイアンツ」の撮影終了からわずか1週間後の1955年9月30日、彼はサーキットに向かう途中で、交差点の出会いがしら衝突によって亡くなりました。日本での映画公開は死亡後だったそうです。享年わずか24歳、永遠のスターになったのです。
本日はサボり記事ですみません。
ブラックは3人組のバンド名で、本名はコリン・ヴァーンコム、1962年生まれのイングランドのシンガーソングライター。1981年、リヴァプールでデビュー。1986年にようやく「ワンダフル・ライフ」が世界的ヒット。
事故状況は詳しく報道されていません。2016年1月12日、アイルランドのコーク空港付近にて、交通事故に巻き込まれて昏睡状態となり、1月26日に死去、享年53歳でした。
ワンダフルライフ 👉
1941年(昭和16年)生まれ。東京都中央区日本橋の出身です。ドリフターズではサイドギターでした(リードギターはブー、ベースはいかりや、カトちゃんドラム、荒井 注さんは覚えてない・・ので調べたらキーボードでした。ほとんど弾けなかったようですが)。仲本さんはビートルズで言うとジョン・レノンのパートです。1966年6月武道館、ビートルズの前座としてドリフは『ロング・トール・サリー』を演奏、仲本さんがヴォーカルでした。その後、バンドよりコメディグループとして、1969年より「8時だよ全員集合!」放送開始、そのお化け番組で大ブレイク、1982年まで放送されました。
事故は、2022年10月18日午前9時12分頃、横浜市西区浅間町5丁目の信号機のない交差点を横断中、ワンボックスカーにはねられ、緊急手術となりましたが、最後まで意識が戻ることなく、翌日に亡くなりました。診断名は急性硬膜下血腫、享年81歳。
事故場所は、歩行者横断禁止となっています。高齢者の横断中事故は多いものです。歩行者に責任のある横断禁止道路であっても、直進する自動車は気を付けなければなりません。
詳しくは以前の記事から 👉 
イギリス貴族スペンサー伯爵家の令嬢として誕生。チャールズ皇太子と1981年7月に20歳で結婚も1996年8月に離婚。常にゴシップに追われ続けた生涯については、マスコミ報道でご存知と思います(私はまったく興味がありませんが)。
近年は、浦沢 直樹さんの「20世紀少年」でリバイバルでしょうか。T・レックスの「20センチュリー・ボーイ」がタイトルになっています。映画でもそのまま曲が使われていました。
マーク・ボランの事故は自損事故ですが、オカルトじみています。若い頃にフランスで魔女と一緒に暮らしていたというボランは(ほんまかいな?)、その魔女から「若くして成功を収めるが、30歳までに血まみれになって死ぬだろう」と言われた事を語っています。
年配の洋画ファンではおなじみのハリウッド女優、1950年代の活躍ですから親の世代のスターです。学生時代、VHSビデオでヒッチコック作品は、ほぼ制覇しています。とくに、グレース・ケリー出演の「裏窓」、「ダイヤルMを廻せ」は、お気に入りです。後世のサスペンスものに絶大な影響を与えたと思います。三谷 幸喜さんの脚本による「三谷劇場」、その狭い空間でのドラマや、シチュエーションコメディの手法は「裏窓」、あるいは「ハリーの災難」の系譜と思っています。「裏窓」はヒッチコックの個人的ベストで、10年に一度は繰り返し観たい作品です。ブルーレイ買おうかな。

「ロックミーアマデウスの」と言わなければ、誰だ?となってしまう、オーストリア人のロックシンガーです。本名はヨハン・ヘルツェル、元はバンドのベーシストです。ソロ転向後、1986年の「ロックミーアマデウス」が世界的ヒットとなりました。翌年、高校生の私は来日コンサートに(NHKホールだったかな?)行きました。オーストリア人が米ビルボードチャートで1位になったのは・・ファルコだけと思います。当時のドイツ語圏において、ラップ、ヒップホップの先駆けとなるヒット曲でした。この曲のドイツ語ラップが、英語では卑猥な言葉に聴こえる点がウケたとも言われています。
世界的成功の後、彼はドミニカ共和国に移住しています。そして1998年2月6日、サント・ドミンゴ、プエルト・プラザの高速道路にて、三菱パジェロを運転中にバスと衝突、頭部外傷にて亡くなったそうです。血中からアルコールとコカインが検出されたとも言われています。遺体はウィーンに戻って埋葬されました。音楽活動から遠のいた時期でしたので、静かなニュースだったと記憶しています。
たまに思い出したように観たくなるビデオクリップです。
youtube 👉
山形県の新庄駅から車で30分、穏やかな山里に3軒の宿が連なる羽根沢温泉にちょっと1泊しました。観光地と呼ぶには程遠い、温泉の為の温泉地でした。




