昨年から、頚椎捻挫・腰椎捻挫の診断名がなく、肩や背、腹、腰など、細かい部位の痛みの申請が続きました。これらの部位は、頚椎や腰椎と違って認定結果は振るいません。それら部位に単なる打撲や捻挫があったとして、通常は数カ月で治るもの、これが常識だからです。頚椎や腰椎の場合、痛みの原因が脊椎の神経に触るところであり、長引く症状の説明が成立しやすいと言えます。
今回は、肋骨骨折と部位が重なることをもって、審査側に理解を求めました。弊所は各部位の痛みと原因を丁寧に説明し、意見書を揃え、いくつもの認定を得ています。おざなりな申請では等級はつかないのです。
頚と腰以外は”的が絞りづらい”です
非該当⇒14級9号:肩・腰背部痛(60代女性・埼玉県)
【事案】
自転車で交差点を横断の際、左方よりの自動車と衝突したもの。頭部に裂傷と左肋骨の骨折となり救急搬送、以後、通院が続いた。 【問題点】
頭部裂傷は縫合のみで大事に至らず、肋骨も保存療法とした。一方、肩から脇腹(腰背部となる)の痛みが緩解せず、理学療法は半年に及んだ。肋骨骨折が契機とは言え、これらの部位から「初回で等級がつかないだろう」と悪い予想通り、後遺障害申請したところ非該当の回答が返った。 【立証ポイント】
予想していたことなので、治療先に追加の意見書を依頼し、症状固定後の治療費の明細等を付して再申請へ。
結果、肩・背・腰の痛みで14級9号となった。これら部位の痛みでの認定は、毎度の頚椎捻挫・腰椎捻挫と違って等級を取りづらい。


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ここ数年の統計数字を見ても、今年のクマの出没は異常なくらい増えています。出没地域の皆さんのご不安は察して余るものがあります。
ここの露天は二つ、その渓谷の眺望を越えて、内湯が大のお気に入りです。弱アルカリ性の硫黄泉で実に肌触りが滑らかなのです。
レポート 👉 
調べますと、金八先生の第1期、その放送期間は1979年10月26日~1980年3月28日です。第1期の生徒は、たのきんトリオ、鶴見 辰吾、杉田かおる、小林 聰美(敬称略)、そして現国会議員の三原 順子先生と錚々たるメンバーです。このシリーズは総じて若手の登竜門のようです。ただし、再放送も含めて私は1回も観たことがありません。今後も観ることはないと思います。それでも、モノマネやパロディで金八先生は知っていますし、挙げた生徒さん達はずっとテレビで御馴染みです。これはこれで、すごい事に思えます。逆に、プロレスに興味ない、嫌いと言う方々も猪木は知っています。武田 鉄矢と猪木、まさに昭和の2大アイコンですね。

ところが夜に急に冷え込み、翌朝、窓の障子を開けると・・

(1)退職代行業って流行っていたんだ・・
退職を誰かに任せたい、そんなニーズがあるのですねぇと思っていました。ところが、ニーズはわずかではなかったのです。また、「会社辞めます」と電話や手紙を出すだけの仕事です。こう言っては失礼ですが、ノウハウなどいらないような非常に簡単な仕事です。最初、このようなユニークな(?)仕事で、経営が成り立つのかな?と疑問視したものです。ところが、近年の隆盛を見ての通り、全国規模の法人がいくも立ち上がりました。これは(商売っ気の弱い)私の想像を超えたものでした。
(2)退職代行業は非弁護士行為(弁護士法72条)か?
ある代行業社の公式サイト、そのQ&A「退職代行って違法なの?」との問いに対して、「弁護士以外が交渉を行えば違法になります。当社は「通知」に徹しているため、違法性は一切ございません」との回答が掲載されています。「交渉」とはすなわち法律業務を意味しますが、「会社を辞めます」という意思表示をだけなら、片面的な行為(一方からの通知だけ)なので、弁護士法で禁じられている「代理行為」には及ばないことになります。したがって、合法となります。
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(このジャケットで初めて顔を見ました)
(選手名は敬称略)奥 大介は1976年2月7日生、兵庫県尼崎市出身のJリーガー、現役時代のポジションはミッドフィールダー。日本代表にも選出されています。
今では信じられないことですが、1950年代までのハリウッドでは、20代前半の若手スターなど、ほとんどいなかったのです。若者が主人公となる映画は無きに等しかったと思います。名だたる二枚目俳優は若くて30代後半、ほとんど中高年でした。ロック・ハドソン、クラーク・ゲーブル、ケイリー・グラント、ジェームス・スチュワート・・もう、おっさんばっかりです。そのおっさん達が、親子ほど年の離れた若手女優とくっつく話ばかり。1953年公開、「ローマの休日」のグレゴリー・ペックは当時37歳、オードリー・ヘップバーン24歳と一回りの年齢差ですが、これでも年齢が近い方です。そう、映画は大人のもの、だったのです。
そのような中に、粗削りで未完成だが憂いのある若手スター、ジミーが誕生したのです。50年代のアメリカにおける尾崎 豊とでも例えましょうか・・それは、衝撃的なデビューだったようです。「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」有名な3部作を残しました。
「ジャイアンツ」の撮影終了からわずか1週間後の1955年9月30日、彼はサーキットに向かう途中で、交差点の出会いがしら衝突によって亡くなりました。日本での映画公開は死亡後だったそうです。享年わずか24歳、永遠のスターになったのです。
本日はサボり記事ですみません。




